フランス語の辞書

ここで、ひとつの懺悔を。
大学生の頃の話です。
ある日、私は、大学構内で、フランス語の辞書をなくしてしまいました。
すぐに、学生課の落とし物あずかり所へ問い合わせに行きました。
「フランス語の辞書を…」と言うと、係のひとは、すぐに「これかな?」と私の辞書を差し出してくれました。
見つかってよかった!と思ったのは、私が勉強熱心だったからではありません。
その辞書、とても高かったのです。
簡単にサインをし、私は辞書を手に落とし物あずかり所を後にしました。


それから数ヶ月後、フランス語のテスト中に、変なことに気がつきました。
そのテストでは辞書の持ち込みが自由で、問題を解きながら、辞書をパラパラめくっていたんです。
すると、単語にアンダーラインがひいてあるのを見つけました。
……あれ?
こんなライン引いたっけ?と思いつつも、そこはテスト中、とりあえず先を急げと、辞書をめくります。
すると、また、アンダーライン。
……ん?
慌てて、辞書全体をバラバラとめくってみると、そこには至るところにアンダーラインが。
その瞬間、気がつきました。
この辞書、私のじゃない……。
フランス語が大キライで、普段全く勉強していなかった私。
辞書だって、本当に久しぶりに開いたのです。
もちろん、アンダーラインを引いて、単語を覚えようとしたことなんかありません。


あのとき、落とし物あずかり所に届いていたのは、私の辞書ではなかったのでした。
けれども、全く同じ辞書を、偶然にも同じ時期に同じ構内でなくしてしまい、それは間違った持ち主に返ってしまった。
この出来事を、『Lost & Found』の脚本を書くときに、突然思い出しました。
落とし物あずかり所って、すごく危うい場所なのかもしれない。
そこに、悪意が入り込めば、そのシステムは間違いを起こす可能性がある。
それは、つまり、誰かのものを、簡単に持ち去ることができるということ。
善意で成り立っているがゆえの危うさです。


その辞書が私のものではないとわかったら、次にすること。
それは、落とし物あずかり所に、その辞書を返しに行くことでしょう。
けれども、私はそれをしなかった。
言い訳をしようとすれば、できるかもしれません。
まず、あまりにも時間が経ってしまっていたということ。
受け取った瞬間に気がつけば、「あっ、これ私のじゃありません」と言えたかもしれない。
でも、今さら届けたところで、この辞書が本当の持ち主に届く可能性は低いんじゃないか……。
落とし物あずかり所で眠り続け、やがて保管期限が切れて処分されてしまうより、私がこのまま使った方が……、とは随分都合のいい話ですが、そんな言い訳もできそうです。
それから、すごく正直なところ、また新しい辞書を買うのがもったいない、面倒くさい……そういう気持ちがあったことも認めなくてはなりません。
でも、私が届けなかった理由は、そんな具体的なことよりも、自分を弁護するわけではありませんが、ただ何となく届けなかった…というのが一番ふさわしいような気がします。


すごく変な話ですが、誰かのひいたアンダーラインを見た瞬間に、今まで開きもしなかったその辞書に愛着のようなものを感じてしまったのです。
それまで全くフランス語を勉強しなかった私は、単位を落とし、再履修クラスに入れられました。
そこで、初めて、その辞書を使って真剣に勉強をし始めました。
調べた単語にアンダーラインが引いてあると、ああ、この人も調べたんだ…と思いました。
そして、私は、このアンダーラインを見る度に、誰かの辞書をそのまま自分のものとして使っている…という事実を何度となく思い出すのです。


×××映画公開も後半に入ってきているので、以下、少しだけ映画の内容に触れます。これから観る予定で何も知りたくない方は、お気をつけください…×××


映画の中で、目の覚めた富樫がなぜ、持ち去った時計を落とし物あずかり所に返さないのか、それは不自然ではないか…という声を、制作段階で何度か耳にしました。
でも私は、これに関しては、はっきりと言うことができます。
人間の行動って、そんなに単純じゃないはず。
自分の過ちに気がついた富樫であっても、その時計は、持っていたいと感じたんじゃないかと思ったのです。
落とし物あずかり所から盗んだ時計を持ち続けるのは、過ちを認め落とし物あずかり所へ返して終わりにするより、ずっと大変なことです。
その時計を見る度に、嫌な過去を思い出すわけですから。
けれども、あえて、自分に対して罪を背負わせようと、過去を忘れてはならないと、富樫は時計を携帯し続けます。
そういう気持ちで、書きました。


幸い、映画を観た観客の方からの「どうして時計を返さないの?」という疑問は、今のところ耳に入ってきておりません。
完成した映画に、その疑問の余地がないのだとしたら、それは、脚本の曖昧さを埋めてくれた、監督・キャストの力だと思います。


そして私は、必要でなくなったフランス語の辞書を今でも持っていて、それが自分のものではなかったことを、時どき思い出すのです。


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映画『Lost & Found』

監督:三宅伸行

脚本:荒井真紀/三宅伸行

撮影監督:八重樫肇春

キャスト:菅田俊坂田雅彦、畑中智行、寉岡萌希藤井かほり菜葉菜、ひもの屋カレイ、三田村賢二、菅原瑞貴、永井穂花、ジリ・ヴァンソン、田中優

☆シネマート六本木にて公開決定 ※映画『ロックアウト』(監督:高橋康進)との日替上映になります。

詳しくは下記サイトへ

http://www.gr-movie.jp